第18回史跡めぐり・渋沢栄一記念館と世良田東照宮
12月4日、校友会メンバー31名は大宮駅西口のシーノビル脇に集合し、貸切バスに乗り、史跡めぐりに出発。天気に恵まれ、バスは国道17号線を順調に走り、深谷市の旧渋沢邸「中の家」に到着。
現地ではボランティアガイドによる丁寧な説明があり、次のことが印象に残った。
「中の家」は「なかんち」といい、そのいわれ、建物に使用されている「たがやさん」は鉄刀木と書き、黒檀や紫檀と同じ銘木、渋沢栄一氏は明治になり貨幣を4進法から10進法に変えた、すなわち両・分・文から円・銭・厘にした、また銀本位制を金本位制にしたなどであった。
ガイドの説明中、外に新たな80名の団体が到着し、旧渋沢邸「中の家」が大変注目されていると感じた。
天気がよいので、全員、旧渋沢邸「中の家」から青淵由来の碑、青淵の池と橋本文重さんの母校・八基小学校を見物して、渋沢栄一記念館まで歩いた。
渋沢栄一記念館もボランティアガイドの説明を受け、5mもある渋沢栄一像の話と渋沢栄一の生い立ちからその功績を聞くことができた。
お昼となり、近くの割烹で深谷名物の「煮ぼうとう」を全員でとった。
食後、利根川を渡り、太田市の世良田東照宮を行き、拝観。神官の説明で、拝殿(日光東照宮から移築)と本殿の彫刻、装飾などの話を聞いたが、お金がないため、彩色が落ちかけて修復できないと状況とのことであった。
最後に、道の駅おおたに寄り、皆さん地元の野菜などを買い求めていた。
ショッピング後、バスの中でビンゴゲームを行い、さらに林さん持参の「協議会の第8回演芸発表会」DVDを鑑賞し、無事大宮に帰り着いた。
12月に行われる史跡巡りバス旅行
行く前に知ってるのと知っていないとでは楽しさ10倍かも・・・・。
近代日本経済の父といわれる渋沢栄一は天保11年(1840)深谷市の血洗島の農家の家に生まれました。幼い頃から家業である藍玉の製造・販売・養蚕を手伝い、父市郎右衛門から学問の手ほどきを受けました。7歳になると下手計のいとこの尾高惇忠のもとへ論語をはじめとする学問を習いに通いました。
20代で倒幕思想を抱き、惇忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城乗っ取りを計画しましたが、長七郎は京都での見聞からこれに反対し計画は中止されます。その後、喜作とともに京都へ向かい、一橋(徳川)慶喜に仕官することになりました。
一橋家で実力を発揮した栄一は27歳の時、慶喜の弟徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情に触れることができました。明治維新となって帰国すると日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立し、その後明治政府の大蔵省に仕官します。栄一は富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも関わりました。大蔵省を辞めた後、一民間経済人として株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れるとともに「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめ、約500もの企業の設立に関わったといわれています。また約600もの教育機関・社会公共事業の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残しました。
世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)は、群馬県太田市世良田町にある神社である。「東照大権現」としての徳川家康を祭神とする東照宮の1つである。1617年(元和3年)に駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、1644年(寛永21年)に上野国世良田へ移築し、創建された。太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されている。
この地は新田氏の開祖・新田義重の居館跡とされ、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。関東に入った徳川氏は、新田氏から分立したこの地を発祥地とする世良田氏の末裔を自称していたため、徳川氏ゆかりの地ともされた。
寛永21年(1644年)、3代将軍・徳川家光の命により、徳川氏の遠祖の世良田義季の墓があり、天海僧正が住職をしていた長楽寺の境内に創建された。歴代徳川将軍から信仰され、江戸時代は大いに栄えた。明治8年(1875年)、神仏分離によって長楽寺から分離し、明治12年(1879年)に郷社に列格した。
第18回史跡めぐりは日本近代資本主義の父、渋沢栄一の記念館・生家と徳川氏発祥の地・国指定重要文化財の世良田東照宮を訪ねます。今回は貸切バスの利用です。